天理よろづ相談所病院(以下、天理病院)は奈良県天理市にある基幹総合病院である。
詳しくはそのHPをご参照戴きたいがここではそこで6年あまり研修・修練させていただいた者としての観点および一人の奈良県民の視点から述べてみたい。
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天理病院は奈良県民にとってはいわば憧れの病院であり、奈良県生まれの著者も医学生になる前から将来は天理病院で勉強してみたいと思っていた。
診療所の時代まで含めれば長い歴史のある病院だが、現在の基幹病院としての態勢と規模は1960年代に出来上がった。
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当時としては循環器内科や呼吸器内科をはじめ臓器別内科を持つ高度な病院で、奈良県民の間では東洋一という誇らしい評判をよく聞いた。
心臓血管外科もまた同様で、ヘリで重症患者さんを遠方から搬送し手術するという、当時としては離れ業をやって世間の評価は一段と上がった。
当時から天理病院から全国の大学の教授になっていく方は多く、それも病院の信頼を一層高めていたと言われる。
同時に天理病院は「憩いの家」の愛称が示すように、宗教の良さを活かした全人医療が行われていたのも先進的であった。
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当時著者が感心したのは病院内の空気が他宗教に対して極めて寛大で、それどころか他宗教の患者さんがさみしい思いをしないように気遣ってさえいたことである。
患者中心というのは多くの公的病院でもお題目のように語られるキーワードだが、実際には勤労者中心つまり患者は二の次というのが実態である病院が少なくない。
天理病院はその点でも看板に偽りなしであった。
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天理病院がさらなる飛躍を遂げたのは1970年代にレジデント制度(研修医制度)が誕生してからと思われる。
卒後1-2年のジュニアレジデント研修(初期研修)では、今中孝信先生という熱い指導者のもとで甲子園球児のような心構えで毎日朝から(翌)朝まで努力していたような印象がある。
これが現在の我が国の初期研修の魁となったと言われる。
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天理病院のレジデント研修では情熱と自分の足腰を駆使して様々な部門を走りまわればどんな複雑な疾患や問題を持つ患者でも最良の方策が見出せるという、患者を軸に据えた問題解決の経験を積めたことが大きな収穫だった。
その一方、それほど悪くなくとも怒られるという我慢教育は少々辛かったが、今思えば重要なことを教えて頂いたと納得できる。
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褒めるだけでは若い先生方への参考にならないと思われるため、自分の視点から天理病院の研修制度の弱点をあえて記載すれば、それは初期研修の2年間は技術習得がやや遅いということであろうか。
ただ初期研修は目先のテクニックを学ぶことよりも医師としての基本姿勢を学ぶことの方がはるかに重要であるし、技術習得環境もその後改善されているのかもしれない。
また個人の努力でかなりカバーできるところは当時からあった。
要は心構えと努力の継続、そしてそれを容易ならしめる人間関係(広義の問題解決能力)ということかもしれない。
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当時、大変お世話になった院長の柏原貞夫先生は、いつも叱咤激励をして下さり、感謝に絶えなかった。ある日、酒の席でこう言われて私は倒れそうになった。「天理には飲む場所がない、飲む時間もない、そもそも飲む必要がない」。若い間はこれぐらい本気で修練するのが良いのだと感心した。
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シニアレジデント研修(後期研修)では心臓血管外科専門のコースを進み、多くを学ばせて頂いた。
ジュニア・シニアレジデント時代を通じてもっとも感心したのは、そこにいる先輩・同輩・後輩とも、誰にも頼らず自分の腕で立派に生きているプロ根性にあふれた臨床医の集まりであったことである。
後年、結果的に大勢の人たちが時代の要請に応える形で大学教授に栄転して行ったのが自然なことのように感じられる。
制度の良さもさることながら、そこでの出会いがその後の人生に大きな意味を持ったと思われる。
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現在の天理よろづ相談所病院も活発と聞くが、その内部の空気を著者は知らない。
当時の熱さが息づいていれば幸いである。
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執筆:米田 正始
福田総合病院心臓センター長 仁泉会病院心臓外科部長
医学博士 心臓血管外科専門医 心臓血管外科指導医
元・京都大学医学部教授
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